iichiko考・・・焼酎界のガリバーと揶揄される三和酒類の今
三和酒類さんといえば・・・「いいちこ」・・・国内の乙類焼酎の販売量20%を占める“酒造企業”です。そう、すでに“蔵元”というイメージでは語れません。

iichiko考・・・焼酎界のガリバーと揶揄される三和酒類の今_c0001578_20582058.jpg今年の1月4日、三和酒類さんが大分県の県立総合文化センター「オアシスひろば21」のネーミングライツ(命名権)を5千万で5年間買い取るという発表・・・翌日の地元新聞一面にも大きく報道されました。私はこれが・・・吉と出るか、凶と出るか・・・が気になっています。

今となっては・・・多くの方が・・・このナショナル・ブランドとなった「iichiko」の味わいを"ダレ焼酎"のようにおっしゃる・・・ほんとに、そうなんでしょうかね。





注)・・・ここに書くのは、あくまで私的な思い込みであり、憶測と酔っ払いの放談です。私は、焼酎の酒造企業や蔵元の方を見かけたり、講演を聞いたことはありますが、直接お会いしたこともなければ、話したこともありません。ですから、単なるフツーの地元焼酎愛飲家である私(酎州大分)が、読んだり、聞いたりしたことに基づいて、勝手に書くものであることをご承知おきください。

飲んだくれ時事放談:その1・・・三和ブルース

■ネーミングライツ(命名権)取得で感じたこと・・・
 なぜ?三和酒類さんは、ネーミングライツ(命名権)取得したんでしょうかねぇ。憶測ですが・・・県に頼まれたんじゃないでしょうか・・・進出企業ではない地場製造業としての三和酒類は地域の名士たる優良企業です。出過ぎず・・・本業で誠実に努力している紳士的な経営姿勢に魅力を感じていた一人ですから・・・本当は、ネーミングライツなんていう「でっかくなったぞ~わしらも一流企業じゃ~」的に映るような権力的な誇示広告はしたくないのではと思っています。
 また、地元では二階堂酒造さんの『二階堂』がシェア1位、三和酒類さんの『いいちこ』はそれに後塵を配す格好となっていますので、地元での販促戦略の一環かという見方もできるでしょうが・・・私には、地元でシェアを取りたいという戦略には思えないのです。
 というのも・・・写真にも出てた西会長は、どこかで一度パネラーか講演者としてお話されていたのを聴講したことがあったのですが、非常に温厚な頭の低い方で、お話されてたことも“地元との共存”のようなことだったと記憶しています。蔵元というよりも酒造企業となった会社のトップではありますが、現在は押しのけて競争に勝とうという戦略ではなく・・・酒販店やエンドドランカーへの信頼に応えるためにはどうしたらよいかということが実を結んで結果として大きくなってしまった。大きくなったら、なったなりに地元でも期待されるし、いろんな声がかかるようになって、今回も・・・「採算よりも・・・大分のために・・・」という風に私には見えるんですが・・・「皆さんに大きくしていただきました・・・大分の文化施設の困窮を救えるお手伝いができることがこれまでの恩返し・・・」というのが今回のニュアンスではないかと・・・。
 それにしても・・・ネーミングライツで金をつくろうとする県の節操のなさの方が・・・いただけませんね。文化理解度と成熟度も経済効率の前に平伏した施策のように思えてなりません。
 まあ、確かに・・・甲類の牙城でもあります大分の土地柄ですから“○楽文化センター”なんて名称になっちゃうくらいなら・・・こちらの方が地元は喜ばしいのですが。本業の中でも、地域文化や風土の魅力を守り継承する地道な活動もしている企業ですから、賛否両論ありましょうが・・・『iichiko総合文化センター』・・・ハードやネーミングだけではない・・・いいちこのカルチャーイメージをソフト面でも盛り上げてほしいですね。

■ナショナル・ブランドは一夜にしてならず・・・
 私は、この20年近く・・・何の疑問もなく、『いいちこ』や『二階堂』をいただいてきました。歴史的には、今から30年ほど前の昭和40年代にはじまった大分の麦焼酎ですが・・・ナショナル・ブランドとなるまでの成立の経緯を垣間見ると・・・そこに到るまでの苦労が・・・現在の味わいを造っていると思えるのです。
 その経緯を窺わせる記事が『焼酎楽園』VOL.15のp40-41に三和酒類の熊埜御堂社長へのインタビュー記事に見ることができます。
---(概略)
 宇佐地区の小さな蔵元3社が共同瓶詰め会社を設立したのが発端で、その後また1社が加わり協業企業の合併を経て三和酒類が設立。
 麦・麦麹の麦100%の飲みやすいドライ淡麗な麦焼酎を二階堂酒造で1974年麦焼酎『二階堂』製品化、減圧蒸留、新たな濾過法なども相まってこれまでにない酒質を実現、三和酒類も1979年『いいちこ』で参入。その後、全麹造りを研究し、1989年には砂糖添加から脱却。その間に自らの焼酎造りの基本を「少し飲んで、やさしい酔いで、長く飲んでください」と・・・
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 同時に、二階堂酒造の経緯も、少しばかりですが月刊地域づくり'97年09月号に記載されています。
 一方で、二階堂酒造も福岡の蔵元との大分・福岡営業合戦
イオン交換濾過に関しては、宮崎の柳田酒造蔵元の兄(東京農大名誉教授)がイオン交換を研究していたものを採用した焼酎を商品化。その話を聞いて真っ先に泊りがけで勉強した蔵が二階堂さんだったとのこと。(しょちくれケンちゃんこと・・・けんじさんからお教えいただきました。)

今でこそ、大手酒造企業となった蔵元ですが、当時は小さな蔵元の苦労と努力であったという事実は、再認識されて良いのではないでしょうか。一夜にしてならずということを・・・。

■桶売りと桶買いの必然性
 鹿児島から大分の大手が桶買いしている・・・よく耳にしますし、事実ですね。
 一方で、桶売りしている鹿児島の蔵元はそれによって、困っていることもあり、助かっていることもありだと言うのも事実です。
 その辺の経緯は、焼酎台帳-うぇぶよみもの-リレーインタービューの中で、河内源一郎商店社長宇都酒造株式会社代表取締役薩摩酒造株式会社常務取締役らが自らの思いとして述べられています。

 このような経緯を、私なりに紐どきますと・・・
 過去の麦焼酎の本格焼酎ブームは・・・小さな蔵元同士の切磋琢磨からはじまって、その蔵元同士で競い合って、助け合ってきた・・・その過程で・・・焼酎の普及が全国に広まり・・・味わいが一辺倒になりがちという焼酎文化のカウンターカルチャーが・・・新たに求めた小さな蔵元の味わい・・・に繋がっていったと思えてなりません。
 私は、桶売りと桶買いには、あの時代を互いにつくり上げて乗り切ってきたという互いの自負があったと思えるし、それが当時の必然性であったと考えています。

■三和酒類さんへのエール
 小さな蔵元も、大手も同じだと思うんですが・・・苦労した創業期を知る第一世代がいなくなったあとのことまで考え、三和酒類という企業は何をめざしてどのような酒造メーカーになるかを確固たるモノにしておく未来予想図を描き始めてるような気がします。
 味わいは飲みなれたためにいろいろ嗜好がありますが、焼酎一銘柄であそこまでなれたのは・・・技術力、生産品質管理や鹿児島の蔵元との関係の構築などの作る側の苦労と営業努力、物流確保、販促努力などの売る側の苦労と、しかしアルコールである以上社会への影響を考えた楽しい暮らしに必要とされるあまり出過ぎず意識してもらえる企業姿勢とCMイメージの定着の苦労と・・・が非常に上手くまわらないとああなれるわけがないと思っています。
 これまで築き上げてきた「少し飲んで、やさしい酔いで、長く飲んでください」を誠実に実行できる企業姿勢を貫いていただきたいものです。
 一方で、三和酒類さんも大衆(コンシュマー)から顧客(カスタマー)に転換する戦略も考えなくてはならない時期であるのではないでしょうかね。量的拡大の限界の中で、小さな蔵元が醸す手づくりの味わいとは違った技術力と評される酒造企業が醸す新たな味わいの質と幅の広がり・・・そのテストマーケティングが・・・日田蒸留所であり、今年発売する常圧蒸留の製品かと・・・。
 この次なる壁をどう越えるかを楽しみに・・・その味わいを晩酌で味わいえる日々を夢見ながら・・・
by project-beppin | 2005-01-15 17:42 | 焼酎文化考
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