“雨月の会”の遠足(その3)・・・“大入島”周遊
フェリーは“大入島”へ到着・・・車載デッキから降車してハンドルを右に切り、海岸線の道路を島内一周のドライブ・・・。

“雨月の会”の遠足(その3)・・・“大入島”周遊_c0001578_14325482.jpgこの“島内MAP”を見て西側の湾景を楽しみながら・・・ぐるっと時計回りです・・・。

“守後”から“久保浦”、“堀切”、“片神”、“高松”と各港を通り過ぎ対岸“四浦半島”側の眺めと・・・海岸近くまでせまる崖際のわずかな平地に張りつくように点在する漁村の風景・・・湾内の“紺碧”と・・・霞んだ四国・宇和島を見渡せる水平線の“澄青”・・・。

そして・・・この島に伝わる“神武東征”神話の名所・・・。

オヤジの“皇学心”には・・・うってつけでした・・・。

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“雨月の会”の遠足(その3)・・・“大入島”周遊_c0001578_9295368.jpgぐるっと西側を回った北側“高松”から“日向泊”へと・・・。


“雨月の会”の遠足(その3)・・・“大入島”周遊_c0001578_14332580.jpg
↑・・・大入島の北端・・・通称“人形波石(にんぎょうばえ)”の景勝・・・水平線の向こうには・・・霞む四国の宇和海・・・“日振島”か“由良半島”か・・・。

“雨月の会”の遠足(その3)・・・“大入島”周遊_c0001578_14334262.jpg“万葉歌碑”の岩に・・・詠み人を“豊後国の白水(あま)郎”とする赤く刻まれた歌一首・・・

“ 紅(くれない)に 染めてし衣 
  雨零りて
    にほひはすとも
     移ろはめやも ”

(紅花で染めた衣は雨に濡れて色濃くなることはあっても色褪せようか、いやありやしない)
・・・万葉集(巻 第十六:3877)

まるで“守護鳥”のごとく・・・歌碑岩に 留まるトンビ・・・。

“雨月の会”の遠足(その3)・・・“大入島”周遊_c0001578_14341380.jpg“日向泊(ひゅうがとまり)浦”に豊の国名水神の井”・・・。



“雨月の会”の遠足(その3)・・・“大入島”周遊_c0001578_14343587.jpg日向を発った“神武東征”・・・日豊海岸を北上する途中、飲み水を求めて立ち寄ったこの浦で・・・折弓をつき立て真水を湛えた井戸を湧出させたという神話の景色・・・。


“雨月の会”の遠足(その3)・・・“大入島”周遊_c0001578_14351389.jpg大潮の満潮時には波も寄せるような小石浜なのですが・・・確かに真水を湛える神秘の井戸でした・・・。

“雨月の会”の遠足(その3)・・・“大入島”周遊_c0001578_14354887.jpg“日向泊浦”と名付けられたこの入り江に・・・“記紀神話”の中の“史実”が脈々と語り継がれているような気がします・・・。

“雨月の会”の遠足(その3)・・・“大入島”周遊_c0001578_1436229.jpgその海路を北上する“神武軍”の伝承に・・・戦前の“皇軍”たる海軍大将“鈴木貫太郎”の度重なる来島を記した看板・・・その脇には原生“椿”の植え込みがありました・・・。

これを契機に“帝国海軍”等について調べているうちに・・・終戦の年、“聖断”を仰いで“ポツダム宣言”を受諾する“御前会議”の決定をした総理大臣も“鈴木貫太郎”であって・・・その折に最後まで“本土決戦を唱えた強硬派”軍人三名(阿南梅津、豊田)が“大分出身”であり・・・結局、“ミズリー”艦上の“降伏文書”に調印した全権二名(重光梅津)も“大分出身”であったという・・・“神の井”から溢れた“真水”の“忠誠心”とでもいいましょうか・・・“歴史の綾”を感じた“夏”となりました・・・。
by project-beppin | 2008-08-30 11:21 | 大分の風土・行楽
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